お子様ランチ

デミロマが書くちょっと長めの独り言

ラベルを選ぶ

いつかは変化することになるのかな。

 

TwitterのTLに流れてきた言葉を読んで少し考える。

「今アセクシュアルなんだよね」

 

確かに私は今アセクシュアルを自認している。

このセクシャリティはいつか変化するかもしれないし、一生このままかもしれない。

でも、セクシャリティが変化しようが私が私であることに変わりはない。

 

それに、今後変化する可能性があったとして、

性的な行為に苦手意識を持っている私が苦手意識がなくなり行為そのものが大好きになることは少し想像しずらい。

 

TLで「今アセクシュアルなんだよね」の言葉を見かけた後にいくつかのツイートを読んで、その中の1つの意見にとても心に残りました。

 

その意見をざっくりと説明すると、

「最近性的な行為をしてない状態を自虐するためにアセクシュアルという言葉を使う人があらわれたらどうしよう」

というもの。

 

アセクシュアルと一括りにしたとしても、その程度は1人1人異なると思う。

性嫌悪が強く話を聞いたりすることすら嫌な人もいれば、話を聞くだけならば全然平気な人もいます。

アセクシュアルだから「こうあるべき」や「こうしないといけないなど」の決まりなどは一切ありません。

 

個人的にはそもそもセクシュアリティ自体が形に嵌ったものではなく、様々な選択肢から自分にあったものを個人の感情で選択していいものだと思っています。

でも、自分で選択できるからこそそこに自虐的な意味合いを含める必要はないと思っています。

 

自分の意志でアセクシュアルを選択するのです。

誰かに愛されない、性的欲求を抱いてもらえないからなどの消極的な考えをもとにして、アセクシュアルを名乗るのではなく、

誰かに愛されたとしても、性的欲求を抱かれたとしても私はアセクシュアル選ぶだろうと思います。

 

自分のセクシャルに悩んだ上で一番近い選択肢として「今アセクシュアルなんだよね」と名乗ることは誰にも否定する権利がないです。

でも、恋愛やセックスをしてない状態の自虐としてアセクシュアルを選択することはマジョリティになじめず悩みながら自分のセクシャリティを見つけた人々への配慮が少し足りないように感じます。

 

アセクシュアルは最近認識され始めた言葉だと思います。

アセクシュアルの言葉や意味が世間一般に広まるにはまだまだ時間がかかると思います。意味を間違って解釈されることもあるでしょう。

 

すべてを理解してもらうことは難しいだろうから、間違われても別にいいです。

 

覚えて貰えると嬉しいことは、

世界には他者に性的欲求を抱かないもしくは抱くことが少ないアセクシュアルの人たちが存在すること。

愛されることを諦めてアセクシュアルを選択しているわけではないこと。

 

どんな間違われ方をされてもいいけど、

「恋愛しないことや性的な行為をしないことは不幸なこと」

という世間の風潮が少しでも変化するといいな。