お子様ランチ

デミロマが書くちょっと長めの独り言

好きでいいじゃないか

 

尊敬や憧れの意味が含まれた好きな人は何人いてもいいと思う。

 

TV番組を見ていたときに出演者の1人がいろんな人に好きと伝えている本当に好きな人は誰?と話題になっていた。

尊敬したり憧れたりする意味合いの強い好きが何人もいることはそんなに悪いことなんだろうか。

 

周りの自分に関わりのある人たちを

「好き」「普通」「嫌い」に分類したとして。

 

私は大半の人間を「好き」に振り分ける。

もともと人間関係の狭い私にとって家族や友人たちは数少ない大切な人だ。

でも、このなかで順番をつけろと言われても困る。

私の好きには基本的に順番がない。1人1人がべつべつに大切な人であって比べたりするものではない。

 

この考えで普段過ごしているから、何人か選んでその中で誰が1番かを決めたりすることは難しいし苦手だ。

世の中の1人を選ばないといけない雰囲気が苦手だ。

 

それに、尊敬や憧れは何人にしたっていいじゃないか。

人間が10人いれば10通りの素敵なところがあるだろう。

 

尊敬や憧れるということは他人の素敵なところを見つけれるということだ。

出来ないところ悪いところばかりが目についてしまって他人を嫌ってしまうよりよっぽど素敵だ。

 

いつだって他人の良いところに気づける人間でありたい。

大事なもの

「自分の事が大好きです。」

 

初めての自己紹介の1文にこの文章が含まれていてとても素敵だな

と思った。

自分の事を自分で好きと言うのは簡単そうに見えて意外と難しい。

 

「自分をなるべく愛すようにしています。自分を愛せない人は他人も愛せないと思うので自分のことは一番愛すことにしています。」

 

この考え方もとても素敵だな

と思った。

 

自分を愛せない人は他人も愛せない。

 

私は自分を愛せなくても他人を愛することは出来ると思っています。

でも自分の事を愛さずに他人の事を愛してしまうと他人に自分の価値観を委ねてしまうように思うので、やっぱり自分を愛してあげる事を大切にしたい。

 

ダメな自分を許してあげれるのは自分しかいないと思っている。

周りの人にいくら認められても、自分が自分の事を許してあげれないとずっとしんどいままだ。

 

私の口癖は「まっ、いっか」だ。

ちょっとぐらいの失敗であれば積極的に自分を許すようにしている。

時には反省することも必要だけど、失敗ばかり振り返ってくよくよしてもいいことなんて1つもない。

失敗を認めて次にどうするかを考える自分を大切にしたい。

 

なかなか素直に自分の事を愛してあげる事が難しい世の中ではあるけれど、

なるべくならば自分の事を一番に愛してあげて生きていきたい。

 

・忍ばない少年達の交換日記 平塚翔馬君の回が素敵だと思ったお話。

市場にはいけない

gendai.ismedia.j

 

 

この記事の中に出てくる「異性愛市場」がとても興味深かった。

 

異性愛市場とは、

少年と少女がカップルとして「つきあう」とこが子供同士の関係や地位を決める場。

市場と表されるのは、

カップルが驚くべき短期間にくっついたり離れたりして、その子供の価値が市場での

交換価値のようになるから。

異性愛市場が出現したクラスでは異性にとって魅力的か、カップルを成立させる有能な「仲介人」かどうかという、これまでとは違う基準で子供たちが位置付けられる。

 

異性愛市場は同性間の親しさや地位にかかわっている。

この市場に参加する一部の子供たちは、他の子どもたちより成熟している〈おませ〉とみなされる。

「おませグループ」に参加する同性の子どもたちは、「誰と誰がつきあっている」という共通の話題によってぐっと親しくなるし、クラスでの地位もあがる。

 

デミロマの私は異性愛市場になじむ事がまったく出来なかった。

恋愛の話が同性の親しさや地位に関わることはとてもよく理解していた。

 

でも周りに合わせて好きでもない人を好きと偽ることも出来なかったし、 

すぐ付き合って別れたりするような関係なのに「誰と誰がつきあっている」という話題に興味を持つことが出来なかった。

 

いつの間にか他人からの評価の基準が「異性にとって魅力的」であることに変化していくことがとても怖かった。

 

世間に溢れる「モテ」を意識して作り出されたものが苦手だ。

「異性にとって魅力的」であることが幸せに繋がる近道であり、

異性から選んでもらえない、1人で過ごすことは不幸であるという空気感が嫌いだ。

 

異性愛市場に参加することは、異性愛セクシュアリティの枠組みを受け入れることになる。

異性愛の規範によると〈女〉の性的欲望は受動的で、〈男〉の性的欲求は能動的ということになっている。この枠組みでは、〈女〉は能動的な欲望を持った〈男〉の性の対象物とみなされる。

 

大多数の少女は、性の対象物である〈おませ〉にも、友だちから相手にされない〈おくて〉にもなりたくない。 

 

いまだに異性愛市場に参加できない私はたぶん異性愛セクシュアリティの枠組みを受け入れることを拒否したいのだと思う。

 

女であるがゆえに受動的でいなければならない。

能動的な欲望をもった男に性の対象物としてみなされることを受け入れないといけない。

生まれた性別が女というだけで、誰かのものにならないと幸せになれないなんて思われたくない。

 

そもそも「性の対象物」として見てもらえなければ〈おくて〉とみなされ、同性間で友情を築けない世界は嫌だ。

 

井の中の蛙

大海を知らず。

 

最近になって普通だと思っていたことが普通でなかったことを知った。

 

現在、デミロマンティックを自認している私にとって恋愛とは

「感情的につながりのある人に抱くかもしれない特別な感情」である。

 

私にとって恋愛感情とは自認する前もした後も

感情的につながりのある誰かに抱くものだと思っていた。

 

「恋人が欲しい」という感覚がいまいち理解できなかった。

試しに付き合ってみるなんて想像できない感覚だった。

周りの友人たちの恋人が入れ替わるスピードについていけなかった。

 

感情的なつながりのある誰かに恋愛感情を抱く私の「好き」は周りの人たちと少し違う形をしていることを理解したのは最近の事だ。

 

私が当たり前だと思っていた感覚では世間ではマイノリティに区別されるらしい。

マイノリティに区別されることを知ったからといって特別何かが変わるわけではない。

 

ミロマンティックの事を知らないままでも私の世界は何事もなく回っていただろう。

今まで白紙のラベルが貼られていた感情の箱に名前を上書きしただけで、なにかが減ったり増えたりしたわけではない。

でも、自分の気持ちに嘘をついてまで恋愛することを頑張らなくていいかなと思えるようにはなった。

 

知らない世界を知ることで私は私に優しくできるようになった。

知らない頃と比べてずっと生活がしやすい。

お酒が怖い

お酒が飲めない。

 

体質的な問題などは一切ないのだけど、20歳を超えても1度も飲酒をしたことがない。

社会人になれば飲まざるを得ない機会が来るかとも思っていたが、職業柄飲みたくない人に無理やり飲ませることをしにくい職業なので「飲んだことないんですよね~」の一言で飲まなくて大丈夫な状況を作りだすことができた。

 

なぜ飲まないのかというと、

 

・そもそも家族がそこまで飲酒しないのでお酒に触れる機会が少なかった

・好き嫌いが多くわざわざ味のわからないものに手を出したくない

 

このあたりが周りに説明するときによく使う理由だった。

 

最近になってお酒を遠ざけていた本当の理由に気づいた。

 

「泥酔」をしたくない。

 

節度をもった飲酒の仕方では泥酔しないことは重々理解している。

しかし、家族がたまに飲酒する様子を観察することで、自分はそこまでお酒に強くないことが想像できる。

限度を守った飲酒であれば楽しいのかもしれないが、1㎜でも泥酔する可能性が残っている限り飲酒に踏み出せない。

 

なぜ、そんなに泥酔に怯えているのか…

私は私を自分でコントロールできない環境になることがとても怖い。

NHKの「あさイチ」のアンケートで

「泥酔していると性行為の同意があったと思われても仕方ない」と回答した人が35%もいたそうだ。

泥酔していて前後不覚になれば何をされても仕方ないとあきらめている人、何をしてもいいと思う人が35%もいることが少し恐ろしい。

 

もし、泥酔してしまって自分の望まぬ行為に同意していたと思われる可能性があることがとても怖い。

しかも、自分の意志ではなく断り切れない状況でお酒を大量に飲まされてしまい泥酔してしまっても断り切れなかったほうが悪いとされてしまうような世の中である。

 

友達とか信頼できる人たちの前だけで飲めばいいじゃないかと思われそうだが、

酔った自分がどう変化するのかわからないのがとても怖い。

 

いつでも自分の身体を自分のコントロール下に置いておきたい。

自分が自分でなくなるのがとても怖い気持ちはどこからやってくるのだろうか。

ラベルを選ぶ

いつかは変化することになるのかな。

 

TwitterのTLに流れてきた言葉を読んで少し考える。

「今アセクシュアルなんだよね」

 

確かに私は今アセクシュアルを自認している。

このセクシャリティはいつか変化するかもしれないし、一生このままかもしれない。

でも、セクシャリティが変化しようが私が私であることに変わりはない。

 

それに、今後変化する可能性があったとして、

性的な行為に苦手意識を持っている私が苦手意識がなくなり行為そのものが大好きになることは少し想像しずらい。

 

TLで「今アセクシュアルなんだよね」の言葉を見かけた後にいくつかのツイートを読んで、その中の1つの意見にとても心に残りました。

 

その意見をざっくりと説明すると、

「最近性的な行為をしてない状態を自虐するためにアセクシュアルという言葉を使う人があらわれたらどうしよう」

というもの。

 

アセクシュアルと一括りにしたとしても、その程度は1人1人異なると思う。

性嫌悪が強く話を聞いたりすることすら嫌な人もいれば、話を聞くだけならば全然平気な人もいます。

アセクシュアルだから「こうあるべき」や「こうしないといけないなど」の決まりなどは一切ありません。

 

個人的にはそもそもセクシュアリティ自体が形に嵌ったものではなく、様々な選択肢から自分にあったものを個人の感情で選択していいものだと思っています。

でも、自分で選択できるからこそそこに自虐的な意味合いを含める必要はないと思っています。

 

自分の意志でアセクシュアルを選択するのです。

誰かに愛されない、性的欲求を抱いてもらえないからなどの消極的な考えをもとにして、アセクシュアルを名乗るのではなく、

誰かに愛されたとしても、性的欲求を抱かれたとしても私はアセクシュアル選ぶだろうと思います。

 

自分のセクシャルに悩んだ上で一番近い選択肢として「今アセクシュアルなんだよね」と名乗ることは誰にも否定する権利がないです。

でも、恋愛やセックスをしてない状態の自虐としてアセクシュアルを選択することはマジョリティになじめず悩みながら自分のセクシャリティを見つけた人々への配慮が少し足りないように感じます。

 

アセクシュアルは最近認識され始めた言葉だと思います。

アセクシュアルの言葉や意味が世間一般に広まるにはまだまだ時間がかかると思います。意味を間違って解釈されることもあるでしょう。

 

すべてを理解してもらうことは難しいだろうから、間違われても別にいいです。

 

覚えて貰えると嬉しいことは、

世界には他者に性的欲求を抱かないもしくは抱くことが少ないアセクシュアルの人たちが存在すること。

愛されることを諦めてアセクシュアルを選択しているわけではないこと。

 

どんな間違われ方をされてもいいけど、

「恋愛しないことや性的な行為をしないことは不幸なこと」

という世間の風潮が少しでも変化するといいな。

世界の片隅で声をあげる

 

東京レインボープライド2021(TRP2021)が開催されていますね。

 

今年のテーマは

「声をあげる。世界を変える。Our Voices,Our Rights」

 

恋をしないわけではない。

でも、恋愛感情を抱くためには長い時間がかかる。

 

一目惚れはしない。

大勢の中から外見だけで1人を選べと言われるととても難しい。

 

かっこいいと好きは結びつかない。

「かっこいい=恋愛対象になりうる」がいつまでたっても理解できない。

 

 

ほとんどの人が他者に恋愛感情を抱く世界において、

なかなか恋愛をしない私は異質に映るのだろう。

 

ただ恋愛をしないというだけでちょっと変わった子とみられる。

別に他の人と違うところなんてないのに。

 

家族は大切だし、友達だって大切だ。

好きな本や映画、音楽に食べ物、

大好きで応援しているアイドルだっている。

 

平日はしっかりと仕事を頑張って、

休日が待ち遠しくて、やっときた休日には自分のやりたかったことを精一杯楽しむ。

 

世間の人々とほぼ同じだろう。

ただ1つ違うことは、私の世界には滅多に恋愛が現れないだけなのだ。

 

誰もが誰かを自由に好きになるのを認められるように、

誰かを必ず好きでないといけないという世界が変わればいいのに。

 

「声をあげる。世界を変える。Our Voices,Our Rights」

 

小さな声でも声をあげることによって

恋愛を必要としない人たちが世の中にはいることが少しでも伝わればいいな。